「カーネルおじさんって実在する人だったの?」
そんな声をよく耳にします。
カーネルは山あり谷ありの人生を歩み、私たちの胸を
打つエピソードや言葉をたくさん残しました。
知られざるエピソードや言葉から、
カーネルの素顔に迫ってみましょう!

カーネルは、実在の人! オリジナルチキンのレシピを編み出したKFCの創業者です。「世界でもっとも有名なシェフ」と言われることもありますよ。
料理が大好きで研究熱心。陽気で盛り上げ上手。仲間にチキンの調理法を懸命に指導したり、一方では篤志家の一面も。知られざるたくさんの魅力的な素顔があります。
カーネル・サンダースは本名ではない!?
日本では「カーネルおじさん」の愛称で親しまれていますが、本名は「ハーランド・デーヴィッド・サンダース」。「カーネル」は、実は名前ではないのです! 食文化の発展に大きく貢献したことで、アメリカ合衆国ケンタッキー州から与えられた称号なのです。
10歳から働き始めて様々な職業を経験したカーネルは、なんと65歳で無一文に! 残されたのは「フライドチキンのレシピ」だけ...。それでも諦めないのがカーネル。レシピをレストランに売り込むことを思いつき、やがて皆さんが知るKFCの創業者になるのです。
あまり知られていない、ドラマのようなカーネルの生涯をご紹介しちゃいます。

アメリカ合衆国インディアナ州の南部の町ヘンリービルで、貧しい農家の長男として生まれる。

おいしいもので人をしあわせにしたい
原点となる7歳での体験

▲母マーガレットと幼き日のカーネル
7歳のときに、カーネルは自身の原点となる体験をします。はじめてひとりで焼いたパンが上手にできたので、弟と妹を連れて5km離れた工場で働く母に見せに行ったところ、母も工場の女性たちも大絶賛してくれたのです。
カーネルは、料理で人をしあわせにできる喜びを知りました。

果てしなく続いた苦難の日々
カーネルを支えた母の一言

カーネルは、家計を助けるために10歳で仕事を始めたものの、幼さゆえに仕事に身が入らずクビになります。
このとき母から言われた言葉を、生涯忘れることはありませんでした。
その後、ペンキ塗りや軍隊、鉄道員、弁護士助手、保険営業など様々な職業を経験。29歳で蒸気船運航会社を設立したカーネルでしたが、軌道に乗せることができずに破産してしまいます。
苦難の連続でしたが、どんな仕事も母の言葉を忠実に守り懸命に取り組みました。

運命を変えるチャンス到来
働く意欲とホスピタリティにより
才能が開花

求職中のめぐり合わせによって石油会社のマネージャーと出会います。ガソリンスタンドのオーナーを任されたカーネルは、熱意を持ってがむしゃらに働き、ビジネスの才能を華々しく開花させていったのです。
他店より2時間も早い朝5時から営業し、当時、前例がなかった「フロントガラスを拭く」「タイヤチェックをする」といった無償のサービスにも力を入れ、店はたちまち評判になりました。
このガソリンスタンドは世界恐慌により手放すこととなりますが、カーネルの目を見張る仕事ぶりと評判を聞きつけた他社から、別のガソリンスタンドのオーナーを任されます。
そのガソリンスタンドは近くにレストランがなく、ドライバーたちは、いつもおなかを空かせていました。彼らのために何かできないかと考えたカーネルは、ガソリンスタンドの倉庫を改造し、小さなカフェを開きます。
1930年、カーネル40歳のことでした。

10年にもわたるこだわりが生み出した
誰にも真似できない味

カーネルのカフェは繁盛し、後にレストランとなります。レストランの人気メニューは「フライドチキン」。カーネルは、もっとおいしいフライドチキンをつくってお客さまを喜ばせたいと、日々レシピの研究を続けていました。
スパイスの細かな調合や当時の新製品であった圧力鍋の使用など試行錯誤を重ね、1940年、ついに11種類のハーブ&スパイス、圧力鍋を使った唯一無二のオリジナルチキンのレシピを編み出します。実に10年もの歳月をかけて完成させたのです。

65歳で無一文からの起業
1010回目にして獲得できた契約

順風満帆だったカーネルを悲劇が襲います。高速道路が移転して、レストランの客足がぱたりと途絶えてしまったのです。カーネルは、泣く泣くレストランを手放す決断をします。65歳にして、無一文になってしまったのです...。
当時、カーネルは生涯の親友となる青年と出会いました。ユタ州ソルトレイクシティでレストランを経営していたピート・ハーマンです。ある日、ピートの自宅に招かれたカーネルは夕食にフライドチキンをふるまいます。そのおいしさに心底感動したピートは、カーネルのフライドチキンを自身のレストランのメニューに加えることを提案します。
ピートが大絶賛してくれたことから、カーネルは自身に唯一残された「フライドチキンのレシピ」の価値に気づきます。自分のフライドチキンでたくさんの人をしあわせにできる。その信念で、全米のレストランに売り込むことを決意するのです。車にスパイスを載せ、ときには車で寝泊まりしながら、一軒一軒レストランを訪れました。断られても断られても諦めず、1010回目にしてようやく契約を獲得できたのです。
カーネルはピートとともに、南部のおもてなし料理ということが分かるよう、地名からフライドチキンを「ケンタッキーフライドチキン」と命名しました。

8年で600店に拡大
カーネルのレシピと想いは永遠

自動車での移動が活発になり、持ち帰り需要が生まれたことでKFCの人気は加速しました。フランチャイズ契約は激増し、1955年にケンタッキーフライドチキンコーポレーションを設立した後、わずか8年で店舗数は600店まで急拡大しました。
1964年、カーネルは信頼する実業家に経営を譲り、1980年に90歳で亡くなるまでKFCの親善大使を務めました。「自分のおいしいフライドチキンを世界中の人々に食べてもらいたい。おいしさでしあわせを届けたい。」その一心で、ときには熱く、ときにはおもしろおかしく、そしてときには真剣に、魅力あふれる人柄で唯一無二の味を世界に広めていきました。
145以上の国と地域にある24,000以上のKFC店舗で、今もカーネルの想いを胸に、レシピを大切に守ってチキンの調理を続けています。
いつも笑顔でお客さまをお迎えしているカーネル立像にも、案外知られていないエピソードが。選りすぐりのヒミツをご紹介しちゃいます。なお、立像は、60歳代のカーネルを忠実に再現していると言われているんですよ!




日本KFCの創業メンバーが視察でカナダを訪れた際、とあるお店の倉庫で眠っていたカーネル立像を発見! 当時の日本でKFCはなじみが薄く、赤と白のストライプの店舗外観から電気屋や理髪店に間違われることも...。「創業者をお店のアイコンにしたらどうだろう?」という考えから、立像を店頭に置くアイディアが生まれ、カナダからわざわざ立像を持ち帰ったそうです。



カーネルは来日時に自分の立像と対面し、そっくりな立像に驚くとともに喜んだそうです。



子どもが大好きだったカーネルがもっと多くのお子さまと触れ合えるように...という思いで、2018年誕生! カーネルとともにベンチに座り、ほっと一息ついたり、ご家族で写真撮影をしたりすることができますよ。

おすわりカーネル設置店舗
(2023年4月末時点)- すすきのノルベサ店(北海道)
- サンロード青森店(青森)
- イオンモール盛岡南店(岩手)
- イオンモール盛岡インター店(岩手)
- 仙台駅前店(宮城)
- ザ・モール仙台長町店(宮城)
- イオンタウン郡山店(福島)
- ららぽーと新三郷店(埼玉)
- ららぽーとTOKYO-BAY店(千葉)
- 大崎ニューシティ店(東京)
- ホームズ新山下店(神奈川)
- 長野駅前店(長野)
- セブンパーク天美店(大阪)
- ららぽーと門真店(大阪)
- カジル岩国店(山口)
- フジグラン松山店(愛媛)



出典/講談社『FRIDAY』1985年11月8日号 P.70
1985年10月16日、阪神タイガース優勝の際、ファンが熱狂するあまりカーネル立像を胴上げして、道頓堀川に投げ入れてしまう事態に...。24年後の2009年3月10日、大阪市建設局が道頓堀川を整備していたところ、カーネル立像が偶然発見されました。長い年月を経てもその笑顔は変わらぬまま。奇跡の生還を祝い、“幸運の象徴”として「おかえり!カーネル」と命名しました。

メガネがなくなってしまうことがしばしばあり、現在は鼻のあたりで固定しています。
なくなったとき、「今日はコンタクトレンズをつけています」の看板を持たせた店舗もあったとか。



カーネル立像自体が持ち去られてしまったことも!
ある日「カーネルが横断歩道を渡れずに困っているので助けてあげて」という情報が。
駆けつけると、横断歩道の手前でカーネル立像が佇んでいました。
現在は、移動できないようにしっかり固定しているので安心してくださいね。
どんなときでも決して諦めることなく、困難を切り拓いてきたカーネル。カーネルが遺した数々の言葉は、私たちの心にじんわりと染みわたり、背中をそっと押してくれます。